2005.7.30  ハチロク 最後の夏

6月21日、衝撃のニュースが飛び込んできました。SL「あそBOY」の廃止決定。
私はすでに98年8月にこの列車に乗車済み(熊本→宮地)です。また、元来私は「さよなら○○」というたぐいは嫌いでもあります。ただ今回はいつものように利用客が少なくて廃止、というより(それも多少あるでしょうが)、機関車の老朽化が主な理由のようなので、現住所の熊本を走っていることもあり、乗りおさめに行くことにしました。

が、思い立ったものの、それからが大変。ちょうど仕事が佳境を迎えていたこともあり、日程をなかなか確定できなかったことから予約をできずにいました。そこへ社内の人から「全然席を取れなかった」という情報が。あせった私は7/7,8に1ヵ月後の指定席の電話予約をしましたが、発売2時間後であったためすでに完売。さらに翌週、10時少し前からこっそり仕事を抜け出して何度も予約センター、近くの駅、ジョイロード(JR九州旅行センター)に電話したものの全くつながらず。追い込まれた私はさらに翌週、知人(失業中)に頼んで朝10時前に駅の窓口に並んでもらいましたがそれでも取れず。夏休みなど毎日のように走行シーンを見ることができ、とても身近だった「あそBOY」はいつのまにか発売開始わずか1秒足らずで売り切れてしまう、超プラチナチケットに変わってしまっていたのでした。

この「あそBOY」の先頭に立ち、この列車のシンボルでもある蒸気機関車(Steam Locomotive,以下SLと略)である8620型、通称ハチロクの誕生は今から一世紀近く前、大正時代にまでさかのぼります。明治5年(1872)の鉄道開業後次々に路線を延ばしていた日本の鉄道網は、明治39年の鉄道国有法による17私鉄の買収により一応の完成をみますが、ヒトはもちろんモノ(機関車、客車など)も各鉄道会社からの寄り合い所帯のためSLにも多種多様な形式が存在し、これは効率的な輸送のための大きな障害になっていたことから、早急な標準型SLの確立が望まれました。そのためアメリカなどから輸入された中・大型SLを参考に作られた国産初の本格的量産SLが貨物用の9600形(大正2,1913)と旅客用8620形(大正3,1914)です。この両形式はそれまでの国産SLよりはるかに優秀で、また当時主力だった輸入SLに比べても遜色ない性能を持ち、何より日本の鉄道事情によくマッチしたSLだったことから、その後8620形は672両、9600形は770両も製造され、その使いやすさからSL全廃直前の昭和50年まで全国で活躍しました。
 その8620形の435番目として大正11年(1922)11月、日立製作所で産声をあげた58654機はまず浦上機関区(長崎)に配属され、その後九州各地で活躍しながら334万キロ、実に地球を84周分も走行したのち昭和50年(1975)3月、人吉機関区(熊本)でその任務を終え、余生を地元、矢岳(肥薩線)駅前のSL展示館でひっそり送っていました。転機は廃車から約12年後、旧国鉄の民営化でした。当時各JRは観光の目玉として各地でSLを復活、あるいは復活を模索していました。そんななか九州にもSLをよみがえらせることになり、大正生まれながらも保存状態が比較的良好だったこの機に白羽の矢が立てられ、JR九州小倉工場で修復の上、昭和63年(1988年)8月28日、阿蘇路に見事復活を果たしたのでした。
 世界一の大カルデラ、阿蘇山にあわせウェスタン調にまとめられた客車3両を引っ張り力強く阿蘇路の急勾配を登っていく「あそBOY」は大変好評を博し、毎週土日と夏休みなどにはほぼ毎日、多くの乗客を乗せて元気に走っていました。が、やはり大正生まれの老年機、牽引わずか3両とはいえ33パーミル(1000分の33)の急勾配は躯体に確実に損傷を蓄積させたようです。これまでにも何度か故障などで運転を打ち切ったりしたことは何度があったようですが、ボイラー(SLの動力源である蒸気を発生させる、あの大きな円筒状のもの)を支える台枠と呼ばれる部分に重大な損傷が判明したことから、今夏での引退が決まりました。

7月30日。熊本地方はあいにくの雨模様。そんな中かなり朝寝坊した私は昼過ぎに肥後大津駅に向かいました。すでに”登り”は終点・宮地駅に着いている時間です。その後を追うように14時05分肥後大津発の普通列車で後を追いました。いつの間にか雨は上がり、青空さえのぞいています。「あそBOY」をさんざん苦しめた33パーミルの急勾配を新鋭(といっても登場後15年くらい経ちますが…)ディーゼルカーはすいすい登っていきます。途中、離合する特急の遅れなどもありましたがほぼ定刻に列車は宮地駅に到着しました。

前面部(JR宮地駅)
 いたいた、58654。黒光りした車体。煙突から立ちのぼる煙。そして時おり大きな音とともに排出される蒸気。登場以来、「最も人間に近い機械」と言われ、その姿から”くろがねの馬”とも呼ばれたSL。とても引退間近とは思えないような力強いさまですが、列車の最後部に目を転じるとそこには橙色のディーゼル機関車が。SLの不調時に備えてしんがりを努めるようで、そこにこのSLの厳しい現実を垣間見た感じがしました。それにしてもSLの周りには人だかり。写真撮影にも苦労しました。もう”降り”の発車時刻まで15分弱しかありません。とにかく一通りの写真を撮りおわるともう発車を知らせる車掌さんの笛の合図が。急き立てられるように「あそBOY」に乗り込みました。
 阿蘇駅発車時点で席は完全に埋まりました。家族連れが多く、車内は至って和やかな雰囲気です。まだ廃止まで時間があることから、心配していたような「鉄ちゃんに乗っ取られる」様な感じではなくほっと一息。「子供にSLを見せといてあげたい」という若い夫婦も多く、彼らはそれほどSLには詳しくないようで、煙突から吐き出される煙を見て「何か燃やしているんだろうねー」などという人たちも。2号車の売店では写真などのグッズ、また飲食物がよく売れています。私もアイスを所望しましたが、時すでに遅し。宮地駅でもらったパンフレットには今年11月までのSL運転スケジュールがびっしり入っていました。いかにSLの廃止決定が急な出来事であったかを間接的に物語っています。勇ましく走る外見とは裏腹に、車内は空調が効いており、そのため窓は開かない(開けられない?)ため、あのSL特有のドラフト音(シュッ、シュッ、シュッ、という音)はほとんど聞こえません。1号車先頭のフリースペースでわずかに聞こえるかどうか、という感じです。赤水駅では老婦人が座席指定券なしで乗り込もうとしていましたが満席を理由に乗務員にあっさりと断られていました。そう、私の席も7/26にキャンセル待ちで奇跡的に取れたものなのです(残念ながら”登り”の分は取れませんでしたが)。
 それにしても今日は沿線にカメラマンの多いこと。沿道で三脚を構え、集音マイクまで用意している、いかにもな人たちもいれば、踏切などでコンパクトデジカメでパチリとやるにわかカメラマンまでたくさんいます。また大人に抱っこされて手を振る小さな子供も。この子達の印象にこの「真っ黒で煙をもくもく吐いて走る電車」は残っていくのでしょうか。
 やがて列車は立野駅直前のスイッチバックへ。中の乗客がわいわい騒ぐのをよそに列車は静かに、しかし何事もなく逆行運転を始めます。その立野駅で小休止のあとSLは阿蘇路最後の下り坂にかかります。

JR肥後大津駅にて

「あそBOY」全景(JR熊本駅)
一番後ろに救援用のディーゼル機関車が見える
 坂を下りきった肥後大津では大変なことになっていました。ここでは定期列車を先発させるため数分停車します。これが最後のシャッターチャンスと大挙して下車する乗客。ここで降りる人、ここから乗る人、そして写真を撮る人その他大勢の人のため、たいして広くない肥後大津駅3番ホームは大混乱に陥っていました。この駅は駅舎からホームの移動はよくある地下道や跨線橋ではなく、地平の通路を通るのですが、どさくさにまぎれて線路に入り込んで写真を撮ろうとする人や、定期列車が発車するため線路内の踏み切りが鳴っているにもかかわらずそこから動かない人まで出て来るありさま。そんな時「せっかくだからいいじゃない」というおばさんたちの声が聞こえてきましたが、安全を確保するため奮闘する社員の方々に非常に失礼ですし、社会人としても失格でしょう。だいいち、もし万が一そこで事故が起きたら、だれが責任を取るというのでしょう。「赤信号、みんなで〜」の集団心理がしばしば顔をのぞかせる、日本人の悪い例です。
 ここからは車窓はすっかり都市圏鉄道の様相を呈してきます。車内ではカウボーイハットを無料貸し出しし、あちこちで記念撮影が行われていました。私自身は何度も電車で通った所であり、程よい揺れも手伝って最後は少し居眠り。
 17時22分、熊本駅定刻着。やはりここでも最後の記念撮影で大騒ぎでした。


この地図画像は「白地図KenMap」を用いて作成しています。
 
旅データ

 日程表(カッコ左は到着時刻、カッコ内は乗換駅、カッコ右は出発時刻)
05.7.30(土)(肥後大津)14:05 → 15:07(宮地)15:21 ―〔快速SLあそBOY〕→ 17:22(熊本)17:45 → 18:21(肥後大津)

 旅費内訳
乗車券(肥後大津→宮地→熊本→肥後大津)\2,160
「あそBOY」指定席券\800
\2,960

 乗りつぶし記録
(今回の路線はすべて乗車済み)

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